朝福田丸出生地と伝えられている場所(山直上駐在所裏付近)
朝福田丸出生地付近の様子
いつしかそのことを耳にした長者の娘は、
―私のためにその親子が死ぬようなことになっては大罪である。何とか元気を取り戻してほしい―
と心を痛め、
「周りの者から貴男(あなた)のことを聞きました。早く元気になって下さい」
と使いをやった。これを聞いた親子はたちまち元気になり、床をあげて出歩(である)けるようになると、娘はまた
「秘密のことは文(ふみ)に書かねば相手に解(わか)りません。貴男(あなた)は筆を使えるようになり、私に想(おも)いを伝えてください」
と励ましの言葉を伝えた。なるほどと思った麻福田麿は、近くの能筆家(のうひつか)に通(かよ)って一生懸命に学んだ。その甲斐(かい)あって、1年もすると頼まれた手紙を書けるまでになった。
すると、また使の者が来て、
「私に近付くには、お坊さんになるのが一番です。どうかお坊さんになって下さい。」
と伝えた。なるほどと納得(なっとく)して僧の修行を続けると、
「例えお坊さんになっても、高僧(こうそう)でなければ誰も呼びますまい。一層の修行を―」
との伝言(でんごん)があった。
「都に出て立派な僧になり、早く呼ばれるようにならなければ、あの人に申し訳がない。よし、都へ行くことにしよう」
この決心を知った長者の娘は余りにも哀(あわ)れに思い、自(みずか)ら藤袴(ふじばかま)を織(お)って届けさせた。麻福田丸は感激して都へ出た。
日夜修行に励み立派な僧を目指して数年経(へ)た頃、風のたよりで娘の訃報(ふほう)を耳にした。
―ああ、なんということだ。立派な僧になった私を見てほしかったのに……
しかし、あの人の励ましがあって今日の私があるのだ。こんなに早く亡(な)くなったのは悲しいが、お弔(とむら)いをし、立派になることでお応(こた)えしよう―
麻福田丸はいっそう勉学(べんがく)に励み、やがて都に知らぬ者もない高僧になった。その名も智光法師(ちこうほうし)と称(しょう)し、多くの人の崇敬(すうけい)を集めた。
引用 岸和田市HP 参考文献 小垣廣次著「岸和田の土と草と人と」
社宝の額
積川神社
淀君寄進と伝えられている神輿
十兵衛坂 坂より西を眺めて